-
可能性2018.07.29 Sunday
-
■ご鑑定のご依頼は、こちらから↓「友だち追加」の上お申し込みください。 【ご感想】
おはようございます。
UMMOです。
人生は事細かに決まっていて、自由意志と選択がない!と言うと、
絶望的な気分になると思いますが、それが「自由」だ!と言っている人がいたら、
それが悟っている人だと思って構わないと思います。
2つの相反する事を同時に言えるということは、既に2元の世界、
幸が不幸になったとか、善が悪になったとか、そういう世界に生きていない人だと思うからです。
ここで皆さん混乱するのですが、善い人の顔をして、やっている事は悪行ばかりである人を、
見かけると思います。
言い方を変えてみると解りやすいのですが、
「善い人の顔をして、やっている事は悪行ばかり」
「運命は事細かに決まっているが、それが自由」
同じ事を言っている。
そして、私達の大半が、
「善い人の顔をして、やっている事は悪行ばかり」やっていると同じように、
「嫌な顔を隠して、笑顔で、嫌いな事ばかりをやっている」のですから、
度合いの違いだけで、何ら変わらないと思います。
そして、悟った人も、悟ってない人も結局は、同じ事をしている訳です。
悟りを得ても同じという事です。
悟りっていうのも、実は概念上の言葉であり、人は皆、
既に悟っているのですから、認めてないだけとなりますし、そういう事に権威を置いたりする事がいかに馬鹿げているかも解ります。
全部、小さな種が発芽して、大きな樹に育つように、我々は1本の木の葉っぱ1枚に過ぎず、
全体から見れば、全部同じ樹にぶら下がっています。
何か特別な事をその不自由さの中で見つけようとする事が、不自由を創っていて、
既にある完璧さから、離れようとするので、苦しみが生まれています。
これは、人間の魂は既に誰もが知っていて、誰もが認めたくないようになっているので、
こうなっているという事です。
「自分」というフィルターを通じて、あれは間違っており、私は正しいとか、不幸だ、幸福だ!と叫んでいるのは、
本当に無意味ですが、必要だから起きているのでしょう。
ここに寛ぎ、今この瞬間に生きることが、どうしても出来ないのが我々です。
もっと良い所を目指して、努力、我慢を重ね死んでいくというサイクルを続けているのですから、
葉っぱも木から落ちるしかないです。
「存在している」ということ=完全で完璧である。
ということを赤子に戻るように素直に認めてしまうと、そこに何かを追加する事が成長ではない事に気がつき、
安心感が生まれ、明らかにチガウものはチガウ事にお気づきになられると思います。
「チガウなぁー!」というものを手放すと、「一体私は何をしていたのだ!?」となり、
覚醒☆となりますので、先ず、自分が教え込まれてきた常識、良識を疑ってみると良いです。
得る事は非常に難しいと思いますが、明らかに不要なものだと思うものを手放すのは簡単です。
また、それも然りで、手放せば、必要なものが勝手に得る事になるという事です。
不要なものの見極め方は、「フーチ」で、解りますので、試してみれば面白いと思います。
ありがとうございます。
■誰でも簡単に相談できるオープンチャットは、こちら